昭和40年02月20日  朝の御理解



  御教えを頂く・・?御教えを行ずる楽しみ。そこで、現われてくるお蔭を頂く。有難さと云うふうに、おかげの道順と云うものがついてこなければ本当の信心の味わいと【      】。成程、御理解を頂くだけでも魂が清まると。それは分かっても分からなくても、例えば、それを耳が聞こえない人であっても、その心に頂くところの魂の清まりと云うおかげになってくる。
  御教えを頂く喜びと、を法悦と申します。御教えを頂かしてもらう、喜びが〈ゆうよう〉に段々なってくる。早よすみゃよかこれでは、だからいけんと思うですね。御理解を段々頂けば頂く程分からせて頂く程、御理解の有難さと云うものが身に必みてくる。そしてそれを行じる。今朝もきやまさんがお届けされるのに、「先生、最近よく頂く御教えを行じさせて頂く楽しみが出来てまいりました。」と云うてお届けをしておられます。まぁ、必ずね、おかげが現れます。そのおかげを頂くから有難いのです。ね、
  教祖の神様の御教えを、無駄にしちゃなりません。あだ聞きをしてはなりません。それが本当に教祖のおっしゃっておられる事は、一分一厘間違いない事だと云う事をです、自分の身をもって心をもって体験をもって示していかなければ、そこから不動の信念はいよいよ培(つち)かわれてくるのでございます。ね、教祖の神様が教えておられること、「人を軽う見たらおかげはなし」と、例えば、そう教えておられると、ただそれを本気で、人を軽うと云う事だけではなくそれと、いわばその御理解の裏です。
 軽う見るのじゃない、尊ばせて頂くと云う、神様の氏子として尊ばせて頂くと云う事。ね、一方のその御教えは、「軽う見たらおかげはない」と云う事でございますから、それを重う見る事になってきたらおかげがあると云う事でしょうが、ひっくり返して云うたら、そこでどうでもその御教えを、本気で行じなければいけない。「信心はしなくても世界中の氏子におかげがやってある。
 けれども受け物が悪いとおかげが漏るるぞ」と、こうおっしゃっておる。おかげと云うのは、どうぞ広大なおかげを頂きますようにと、こう思うですけれども、実は、もう広大なおかげを頂いておるんです。しかも、それはもう散々と降るように頂いておるのです。ただそれを受け止め切っていないだけ。だから変人とはです、その無限な無量のです、そのおかげをです、信心によってです、信心の心によってです、和らぎ賀ぶ心によって、それを受け止めさせて頂こうと云う稽古。
 もう広大なお蔭と云えば、億万の金も億万の物も、人間が幸せにならせて頂く為の一切の物がです、ある。もう降っておる、天から降っておるようにある。それを、地からわくような喜びをもって、自分の心からわくような喜びをもって、それを受け止める。「受け物が悪いとおかげが漏るるぞ」と、こう、だからそのおかげの受け物を頂くと云う事がです、現われてくるような喜びがです。
 自分の心からおのずとわいてくるような喜びがです、そのおかげをいよい様々な形たちの上に現していくことが出来るのです。私どもがこうお願いしたことだけをくださるのじゃないのです。本当のことを言うたら、いわば無尽蔵のというか無量のおかげというものは。今日、御神前に出らして頂きよりましたら『福寿海』と云う事。福寿と、皆が求めておるものなんです、所謂おかげなんです。
 私共が幸せになる為に、この福寿がある。足ろわなければいけん。福寿の海に、私共はおるようなもの、しかもそれが無量なのだ。無尽蔵なのである。ね、そこを私共の心で受け漏らさんようにしていく訳なんです。だから氏子におかげをやってあるとこうおっしゃる、ね。「おかげの受け物が悪いとおかげが漏れるぞ」と。真心をもって説かせてもらう。皆さんが、真心をもって聞かせて頂く。
 私がですね、どうぞお蔭を受けて下さいと。私は、まぁささやかながらその福寿海、無量のおかげに触れていきよると自分で思いますね。無尽蔵に限りなくおかげが、私の周辺にこうして現れて来ておると云う事。だからそう云うおかげを頂いてほしいと、切実に願う。思う。皆さんにもそう云うおかげ頂いてもらいたいと、皆さんに思う私がおかげを頂いておる事を、いわばお取次させて頂く。そこで皆さんがお取次を頂かれる訳なんです。お取次頂いて、そう云うおかげを皆さんが頂かなければならない。
  たとえば教えを頂く喜び、そしてその教えをいよいよ行の上に現していく家業の上に現していく、日常生活の上に現していくところの楽しみ、そこに今自分がゆうておる事が、自分が今思うておる事が、今自分が行うておる事が、御教えに反しておるような事はないだろうかと、こう厳密に自分の心の小さな動きの上に於てもです、それを疎かにせずにそれを信心の心に改めさせて頂くと云う事が信心なのです。ね。
  御理解御教えを行じると楽しいと云う事は、私はそう云う心でなからねば行じられないと思う。そこにおかげの有難さと云うものが頂ける。そうしたから頂けると云うのじゃないと云う。おかげはあるのだけれどもそうした心で、所謂キャッチしてゆく訳なんです、おかげを。だから、おかげがいよいよ有難いものになっていく「いう事を聞かん子は、親も仕方があるまいが」と、時節を待っておかげを受けたらよかろうと仰る。
 あれは無信心者、いわば信心の無い者に対するところだけではなくてです、信心を頂いておる者もあれを頂かなければいけない。「ゆう事を聞かん者は、仕方があるまいが」と、私が真心をもって伝えてゆく。 皆さんが、それを、真心をもって頂こうとしないなら仕方がないという事。ね、だから、時節を待ってお蔭を受けたらよかろうという祈りはもちますけれどもです、そこを皆さんの真心をもって頂く。
  例えば、御理解を聞いて帰ると云うのと、頂いて帰ると云うのと、大変な違う。聞いて帰っただけそれを頂いて帰る、自分のものにして帰らる。それは丁度ビ-ルならビ-ルを頂いただけね、ビ-ルならビ-ルを頂いて皆さんが帰られるだけの事。それを頂いて帰らなければね、頂いて帰られると云うのも、皆さんの、所謂真心をもってこの栓を抜かせて頂くようなもの。だからそれを頂かせてもらうからね、有難喜勿体な喜と云う心がです、自分の心の中に頂けてくる。ね、
  どうもここでは皆さんがビ-ルならビ-ルを頂いて帰っておるだけのように思う。ほんとに、ためといてから一遍に飲もうなんて思いよるともう悪酔いする。もう日々頂いていかにゃいけんね。日々頂いて帰らなければそれを真心をもって頂かなければならん。真心をもって伝える。それを真心をもって頂く。ね、そして行の上にです教えを行じさせて頂く事の楽しみが分かって参りましたと云うところに信心の値打ちがある。
 そこにいよいよその信心が、深いものに大きなものになってゆくに従って、福寿海無量と云うです、無量の福寿の海から汲み取らして頂くところのおかげと云うものがです、無量のものになってくる。どうぞ皆さん、いつも同じ事を申しておりますけれども、ね、どうぞその同じような事をなぜ申さなければなりませんかと、皆さんがそれを頂こうとせんからじゃないでしょうか。
  聞いては帰っても、ああそう云う意味の事ならいつも頂いておる。今日の御理解の【      】はどこかと云うとですね、広大なおかげって云うのはもう頂いておると云う事です。お蔭の中にあるんだと云う事です。億万の金を、例えば本当に欲するならばです、その億万の金の中にあるんじゃないかと云う事です。だからそれをまだ頂ききらんのかと、だから頂ききらんと云う事は、実を云うたら恥ずかしい事。ね、
 いわば行じていない証拠。行じる楽しみ、行じる喜びを頂いていない証拠。地から沸くような、天から降るようなそのおかげを、地から沸くような喜び、自分の心から沸いてくるような喜びをもって受けてゆく。その喜びをもっておかげを頂いてゆく、おかげを現してゆくといこと。御理解を頂く喜び、心が清まってゆきよる、所謂その一時であっても、真心をもって皆さんが聞いておられるなら眠気がつきゃしません。
 真心をもって聞きよんなさればです、御理解を頂いておるだけで自分の心が清まっていきよります。いわば、法悦にひたる事が出来ます。信心の喜びにひたる事が出来ます。それを、はぁ、成程そうだと頂いて帰らしてもらう。それを行の上に現す時にです、その行じる事の楽しみと云うものがです、体験されます。実感されます。そこにはです、おかげの体験と云う、有難いお蔭になってくる訳です。おかげ頂きました。